[日本一周]80日目 岐阜 垂井~

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9/27 今日のメインは関ケ原です。

以前、一度だけ来たことはあったんですが、到着したのが夕方で暗くなってしまっていたので満足に周れていないんですよ。

今日は時間はあるので満喫しますよ。

美濃国一ノ宮 南宮神社

関ヶ原の前に一箇所だけ。

美濃国一宮の南宮神社です。

東海道新幹線の近くで、こんな大きな鳥居があるんですが、新幹線に乗っていた時は気づきませんでした。

ここは災難除けの神様のようです。

立派な門と拝殿などがありますが、関ヶ原の戦いの際に焼き払われてしまいました。

その後再建されたのが今の建物です。

この神社の裏手には西軍の毛利隊、安国寺隊の陣跡があります。

関ヶ原方面に行くと、毛利一族の吉川隊の陣跡がありますが、この吉川隊は西軍でありながら、徳川と繋がっていて、毛利勢が関ケ原に行けないよう、足止めをしていました。

この家康の調略は見事でしたね。

そんな家康のすごさをこれから見ていきましょう。

天下分け目の関ヶ原

家康の最初の陣地へ来ました。

まだ、主な戦場からは距離があります。

まあ、総大将は安全な所に居ないとダメですからね。

主戦場の方面へ向かいます。

開戦のきっかけを作ったのは、東軍の井伊、松平隊です。

東軍の先駆けは福島隊と決まっていましたが、井伊隊、松平隊が抜け駆けをしようとして、それを発見した福島隊が慌てて一斉射撃をして戦が始まりました。

野戦が得意だった家康は、勝てる戦と考えていたのか、意外と良い勝負となっていたのにイラついてきます。

そして、味方を鼓舞するために、どんどん前線に進んでいきます。

最終的には、東軍の家康と西軍の三成は数100mしか離れていなかったそうです。

西軍の石田三成は笹尾山という小高い山の上に陣を取っていました。

戦場を一望できる場所です。

この下では激しい戦闘が行われていました。

両軍が互角だった戦況を変えたのが、有名な小早川隊の寝返りです。

西軍に属していた小早川隊も吉川同様、家康と繋がっていました。

しかし、小早川も戦況によって、寝返るかどうか考えていたのでしょう。

そんな時にしびれを切らした家康に、鉄砲を打ちかけられ腹をくくります。

小早川隊は味方であった西軍の部隊に攻撃を仕掛けます。

小早川隊の裏切りを見て、更に他の隊にも寝返りが発生し、西軍は壊滅状態となってしまいました。

三成も逃げようとしましたが、途中で捕まり、後に斬首されてしまいます。

戦までの家康の根回しが大きく発揮された戦でした。

島津の退き口

そんな中、西軍で生き延びた人が居ます。

島津義弘です。

他の隊が壊滅し、最後まで残っていたのが島津隊でした。

しかし、勝てるわけもないので逃げようとするはずが、家康の陣地の方へ前進していきます。

島津隊は家康のそばで方向転換し、伊勢街道へむかいます。

しかし、東軍の井伊隊、松平隊、本田隊が追撃してきます。

この烏頭坂で追いつかれ、甥の島津豊久が捨てがまりという捨て身の戦法をして時間稼ぎをしたおかげで義弘はなんとか伊勢方面から逃げることが出来ました。

これが、ここで亡くなった、島津豊久の石碑です。

これで島津義弘は逃げることができ、島津家も薩摩藩として残ることとなります。

これが島津の退き口です。

まあ、そもそも島津も東軍に属すはずでしたが、伏見城で追い返され、仕方なく西軍についたのもありましたからね。

おわりに

今日の移動 岐阜県垂井町から滋賀県米原市

関ケ原は各武将たちの運命が大きく変わったり、いろいろなドラマがあって面白い場所でしたね。

陣地跡を回るときも、その武将となって進軍したつもりで行くと面白いですよ。

建物は無く、一見地味ですが、おもしろい場所でした。

関ケ原の後は滋賀県にも入りました。

旧中山道を走っていたので、旧国名も書かれた県境でした。

この小さな溝が、今も昔も境目となっています。

今日も1日お疲れさま。また明日。

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