[日本一周]69日目 愛知 田原~

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9/16 今日の朝は涼しくて気持ちが良いです。

日中はだいぶ暑くなりそうなので、早めに移動しましょう。

織田・徳川 VS 武田

昨夜の田原市から50kmくらい走りましたね。

どんどん暑くなってきました。

やってきたのは設楽原です。

長篠の戦いの主戦場と言ったほうがわかりやすいですね。

織田・徳川連合軍と武田軍が対峙しました。

この戦いで特に有名なのが戦国最強の武田騎馬隊と織田方の鉄砲隊との戦いですね。

織田方はこの小さな川沿いに馬防柵を設けて、騎馬隊の突撃を防ぎました。

柵の手前に掘があり、柵を壊すのも容易ではなさそうですね。

3000艇もの鉄砲を用いたとも言われていて、武田軍は次々に倒れていきました。

15000人の武田軍は死者が10000人と言われています。

兵士が1/3になってしまうというと、壊滅的な大敗です。

有能な武将もたくさん亡くなっているので致命的でした。

辺りにはその武将たちのお墓も多数あります。

武田軍ばかり注目されがちですが、織田方も死者は6000人と言われているので、壮絶な戦いだっただろうと思われます。

長篠の戦いの始まりの地

長篠城にももちろん行きましたよ。

戦が始まる重要な場所ですから。

設楽原の戦いの前、武田軍は徳川家の長篠城を包囲しました。

長篠城の兵数はわずか500。対する武田軍は15000。

地の利を活かし、なんとか籠城をしていました。

城の横はこのような断崖絶壁ですから。

それでも、食料は減り、もうすぐ落城です。

その時、鳥居強右衛門という男が、武田家の包囲網をくぐり、岡崎の家康のもとへと援軍の要請をしに行きます。

援軍の要請を取り付けた鳥居は、長篠城へ戻ろうとしますが、今度は捕らえられてしまいます。

早く城を落としたい武田軍は、「援軍は来ない」と言わせようとします。

しかし鳥居は「援軍は来るから、あと数日耐えろ」と叫びます。

それを聞いた長篠城の兵士は、士気があがり援軍まで耐え抜きます。

そして、壮絶な設楽原の戦いへ繋がっていくのです。

鳥居強右衛門はそのまま処刑されてしまいましたが、勇気ある行動として石碑が建てられています。

もし、鳥居強右衛門が脱出していなかったりしたら、設楽原の戦自体起こっていなくて、武田家と、織田家の勝敗は変わっていたかもしれません。

そんなことを想像させてくれるのも歴史の面白いところですね。

おわりに

今日の移動 愛知県田原市から新城市

久しぶりにちゃんと移動すると疲れてしまいますね。

設楽原を歩いて周っていたからかもしれませんね。

足が疲れていたので、3時くらいから道の駅でずっと休憩でした。

今日も1日お疲れさま。また明日。

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だいじだっぺ

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