7/23 現状は曇りですが、昨晩小雨が降ったためか、テントがびしょびしょに濡れています。
テントを片付けて、今日は自宅のある茨城まで走ります。
ここは何県でしょうか?
昨晩泊まらせていただいた、道の駅きたかわべの近くに珍しい場所があるので行ってみました。
ここは埼玉県、群馬県、栃木県3つの県の境目です。
もともとここは渡良瀬川の中だったのですが、のちに行く渡良瀬遊水地造成のため、川の流路が変更され陸地になったものです。
3県境は全国に40ほどあるのですが、ほとんどが川の中や山間部にあるので、簡単に歩いていけるこの場所はとても珍しいです。
平日の朝なので、ほかに観光客もおらず、自由に写真が撮れました。
私が立っている足元には三県境界と書かれています。ここに立っているときは何県にいることになるのでしょうか?
一面のヨシ原、ハート形の池
三県境を離れ、今度は渡良瀬遊水地に向かいました。
一部、湖はありますが、ほとんどが見渡す限りのヨシ原です。
「イノシシに注意!」の看板もあるくらい 自然豊かないい場所です。
ここは日本最大の遊水地で面積が約33㎢あります。
どれくらいの大きさがあるかの比較ですが、東京駅と新宿駅を結んだ、山手線の下半分とほぼ同じ大きさです。
かなりの大きさですね。
この広大な土地で、周辺地域の洪水対策としての役割や、首都圏の渇水時には水の供給も行っています。
遊水地内にはこのようなハートの形をした谷中湖もあり、恋人の聖地として認定もされています。
レンタルサイクルも行っているので、カップルでサイクリングするのもいいかもしれませんね。
史跡保存ゾーンに残る悲しい歴史
ここまで、この渡良瀬遊水地の良い面をお伝えしてきましたが、実は悲しい歴史もあります。
それが、1890年から始まる足尾鉱毒事件です。
教科書で習ったことと思いますが、この事件の被害地域の一つがこの場所です。
ここを流れる、渡良瀬川の上流に原因となった足尾銅山があります。
その当時は銅の毒のため、鮎が大量死をしていたり、川から水を引くと、稲が枯れてしまっていたそうです。
洪水で鉱毒水が多量に広がることにより、汚染されることも多くありました。
そのため、足尾銅山に対する多くの反対運動が起こりました。
その反対運動の中心人物であった田中正造が住んでいたのが、現在の遊水地の多くを占める、旧谷中村です。
谷中村は反対運動の拠点にもなっていたので、運動を妨害するためか、当時の政府は谷中村に鉱毒沈殿用の遊水地を作ることとなりました。
もちろん遊水地造設についても反対運動は起こりましたが、強制的に立ち退きをさせ、家屋を破壊したそうです。
結局、多くの人々が移り住み、谷中村は廃村となりました。
その谷中村跡は史跡保存ゾーンとなっているため、周ることができます。
ここが谷中村役場後なのでおそらく中心地だったのでしょう。
人々の暮らしのあった街の面影は残っていません。
雷電神社、延命院共同墓地跡です。
この史跡保存ゾーンが谷中湖のハート形を形作る、上部のへこんだ場所です。
1972年の谷中湖造成時には、この辺りも湖となる予定でしたが、当時の住人の子孫が保存を訴え闘った結果、何とかこの場所が残り、ハート形の湖ができたのです。
この場所にはこのような悲しい歴史がありました。
強制的に自分の家を奪われ、今まで見ていた風景も跡形もなくなってしまうのはとてもつらかったと思います。
現在でもダム建設や都市の再開発などで、立ち退きせざるを得ないこともあると思います。
自分がその当事者になったときには、納得できるのでしょうか。
治水や経済など大多数の人の利益になるとはいえ、なかなか納得できるものではないと思います。
この様な場所に来るといろいろと考えてしまいますね。
ただ単に自然豊かなきれいな場所ではなく、人々のいろいろな思いが詰まった場所でした。
今日はこのまま茨城の自宅に帰りました。
おわりに
今日の移動 埼玉県加須市から茨城県筑西市(自宅)
明日からは役所の手続きを行ったり、この3週間で感じたこともあるので、装備品の整理などもしようと思います。
また、今週末に地元のお祭りがちょうどあるので、約20年ぶりに見に行きたいと思います。
そのため、再出発は来週となる予定です。
再出発まで少々お待ちください。
今日も1日お疲れさま。また明日?
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